福山雅治「クスノキ」から日本語を考える
2026年1月2日
2025年8月9日は日本語の歴史のうえで記録されるべき日となるかもしれない。この日長崎の平和祈念式典で児童100人が「クスノキ」という歌を合唱したことが大きく報道された。その数日前にはNHK「クローズアップ現代」でも取り上げられた。 「クスノキ」は2014年に福山雅治作詞・作曲でリリースされたという。人気のある歌手の歌だから、それなりに知られていたのではあろうが、国民的ヒット・ソングとはいえないだろう。それが先の放送、報道で知名度が高まったのは間違いない。 私は歌詞を聞いてある違和感を覚えた。同じ思いを抱いた人がいるかとネットを検索したが、それらしいのは見当たらない。どうやら多くの人がこの歌詞を戸惑うことなく受け入れているようだ。 我が魂は奪われはしない この身折られど この身焼かれども 歌詞の一部である。私の違和感は「この身折られど この身焼かれども」にある。多分「この身は折られても(折られたけれど) この身は焼かれても(焼かれたけれど)」という意味なのであろう。 接続助詞「ど(も)」を辞書に見ると「活用語の已然形に付く」とある。古典文法だけに出てくる「已然形」に付くといっていることは、「ど(も)」を古語扱いしていることになる。確かに現代語でも使われるけれど、「といえども」「待てど暮らせど」「行けども行けども」など慣用的な使い方にほぼ限られる。古語どおりならばここは「この身折らるれど この身焼かるれども」となるはずである。私の違和感の一つはこの違いに起因する。 それでは古文になってしまうと福山氏は考え、現代語化を図ったのかもしれない。古語の已然形は現代語の仮定形に変わっていくのだから、現代語化を企図するならば「ど(も)」は「仮定形に付く」とするのが穏当だ。ならば「この身折られれど この身焼かれれど」となるはずだが、福山歌詞はこれとも異なる。私の二つ目の違和感はここだ。「折られど 焼かれど」はどうして生まれたのですかと福山氏にお訊きしたいところだが、それは叶うまい。 誤解を生まないように念のため言っておくが、福山氏を「文法違反だ」と批判するのがこの文章の趣旨ではない。私が注目したいのは、「これは変だ」という声が上がらなかったこと、すんなりと受け入れられているということである。そして見届けたいのは、この「ど(も)」が現代語として復活するのかどうか、復活するとすればどういう形で生まれかわるのかである。この用法が一般的になっていくならば、福山雅治の名そして2025年8月9日は、日本語の歴史に記録されるべき人名、日付となろう。